組織のことで悩み、先輩に指導を受けた。

最近組織のことで悩んでることを先輩の幹部(僕から見たら2階級上の)に指導を受けた。だいぶスッキリした。先輩のいうのは、しっかり祈って、いまある戦いをしっかりやって自分の姿で組織に示すのだということ。組織のみなさんに信頼されていなければ、どんなに正しいことをいっても、それは聞いてもらえないのだ、と。そのとおりだと思った。

あと、僕が疑問に思ってることなどをLINEとかでガンガン投げかけることについて、「こっちでは一生懸命に答えてるつもりでも次から次へとやってくると疲れてしまう」、みたいなこともいわれた。これはちょっとショックだったなあ。こちらとしてはどこまでも組織を強くしたい、お預かりしてるメンバーの方々に信仰者(学会員)としての本来の使命を思い出してほしいと、よかれと思ってやっていることなので。

ひとりでも多くの人を成仏の彼岸へと渡らせる創価の仏法の使命は、いやまして大きい。そのうえで、では、どうすればひとりでも多くの人を救えるのか、というのは古来からの一大テーマなのであり。古来からというか、仏のいちばんの悩みといっても言い過ぎではない。釈迦は最初に華厳経を説いたけど、難しすぎてみんなチンプンカンプンだったから、釈迦は考えを改めて阿含経から説き直したという…。

先輩のいうことは、おそらくは、「ひとりでも多くの」というポイントを重視したアドバイスというか指導なのだと思う。僕からしたら、いまの組織が全体的にマンネリ、惰性になっていて、上から来た打ち出しを、ただこなすだけになっていて、本当の信心の歓喜からは懸け離れているのではないか、という根本的な疑義がある。

「新聞啓蒙」という戦いがある。公式な場では聖教新聞の拡張とかいうのかな(なんか違う言葉だった気がする)。「啓蒙」という言葉が、どこか相手をバカにしてる、下に見てると思われても仕方がない響きがあるから、外に対してはそう言い換えてるんだろうけど。だったら新聞啓蒙という言い方自体をやめちゃえばいいのに、と思わないでもないが。

僕がいま言いたいのは、そこではない。「新聞啓蒙」というのは紙の聖教新聞を友人知人に購読していただくことをいうのだが、創価学会ではこの新聞啓蒙を戦いの基軸につねに置いている。お金を払って友人知人に聖教新聞を読んでいただくことで、創価の仏法を地域社会に広げていこう、ということだ。それ自体はよくわかる。非常に理解できる。

ただ、僕がどうなんだろうと思うのは、この「新聞啓蒙」、1部●ポイントできた、ということばかりが強調されすぎて(ポイントというのは何か月購読していただけるかということ)、啓蒙ができたらエラい、できないとエラくない、みたいな風潮が組織に蔓延してること。

僕は信仰というのは、どこまでいっても本質が大事だと思っていて、信仰者はつねに本質に立ち返るべきだと思う。だからこそ、僕ら創価学会のメンバーは、毎日、朝晩、基本的には勤行唱題という日蓮大聖人が定められた修行を欠かさずやることを推奨されている。

で、聖教啓蒙に話を戻すと、どこまでいっても聖教新聞の記事を通して友人知人にこの仏法の哲理に触れていただくことが大事なわけで、何か月聖教新聞を購読していただけた、というのはある意味、ひとつの結果、カタチに過ぎないと思われ。

もちろん僕は聖教啓蒙が意味がないといっているわけではない。もちろんものすごく意味がある。僕も日曜日に聖教新聞の代配をやっているからよくわかるのだが、自宅のポストに毎日、聖教新聞が当たり前のように届く、そのことの意味の大きさは、いくら強調してもしすぎることはない。創価学会にまったく興味がない人でも、新聞をポストから取り出すときになにげなく目にした1面の記事の見出しで、ちょっと読んでみようかな、と思うこともないわけではないわけで。

繰り返しになるが、毎日、自宅ポストに聖教新聞が届く意味というのは、計り知れないほど大きい。そのうえで、あえていいたいのは、いちばん大事なのは紙の聖教新聞を「取らせる」「取ってもらう」ことではなく、友人知人に聖教新聞の記事に触れていただくこと、読んでいただくことだと思う。

ものすごく大きなことでいうと、僕は時代はモノからコトへ、コトからココロへ、大きくうねりを上げて動いていると思っている。信仰というのは究極の心の持ちようなわけで、モノ(=カタチ)というのは、どこまでいっても仮の姿なわけだ。

聖教啓蒙というのは聖教新聞が誕生した、もう何十年も前からの戦いなわけで、根本精神は永遠に変わらないとしても、いまは電子版もあるわけだし、「紙の新聞を何か月か啓蒙できた」ということだけをすべてだと考えるのは、すこし時代から外れているのではないかと思う。

(ここで少し休憩)

その上で思うのは、以前、尊敬する写真家の小林のりお先生がおっしゃっていたことが脳裏に残っているのだが、写真家として生きていこうとする学生たちに言われていたことには、自分の写真を追求することは大事。でも、自分の写真を続けていくためには、なにか公募展で賞を取ることも大事なんだと。

つまり、まったく新しい自分の写真表現をこれからも続けていって社会に認めさせていくためには、自分の本来の写真表現を若干は曲げる(弱める、日和る)ことがあったとしても、いまある既存の評価軸にいったんは認めさせることも方便としては大事なのではないか、ということなんだろうな、と思う。

自分に当てはめて考えれば、ここでどれだけ聖教啓蒙の評価軸の不当さを叫んでいても組織の方々は相手にもしてくれない。笑 だったらたとえば聖教啓蒙を20部くらいやって、組織の方々をアッと言わせ、自分の発言の説得力を1億倍にすることも方便としては大事なのではないか、ということなのかなと。

あとは、どんなに正しいことでも、相手に伝わらなければまるで意味がないわけで、相手に合わせて法を説いていく、ということが決定的に重要なのかなと。一般社会でも「●●のくせに」みたいな言い方をされますよね。たとえば、そうだなぁ、母親のくせに、とか、政治家のくせにとか、社長のくせにとか、大人のくせにとか、あとなんだろ、大学生のくせにとか、店長のくせにとか。

まあ外形的な肩書では、何も決まらないというか。いろんな人がいるわけで、自分も含めてすべての人は完璧とは程遠いわけで、「●●のくせに」とかいっても、あんまり建設的ではないよねぇ、という話。これは僕が好きでよくする「自分を基準にして物事を判断するな」というのと同じことなわけで。アタマでは分かっているんだけど、新しい事態、状況に遭遇すると、そうか、これも同じことだな、まだまだ自分の理解、反省が足らないな、と心の底から思うわけで。ま、善きことというのはカタツムリの歩みの速さで進む、って誰かが言ってたもんな。そのくせ破壊は一瞬だから、始末に負えない、というか、修行のしがいがありますね。笑

そんなことはどうでもいいや。だいたい、書きたいことは書けたかな。

僕はたぶんどうも、知り合いの方々からは「議論好き」と思われてるみたいだけど、ひとつには兄弟が多くて(自分も入れて4人兄弟。ちなみに僕は2番目で長男)、生存のためにはつねにケンカに限りなく近い議論を日々、繰り返していた幼少時代からの経験があまりにも大きくあるわけで。

そのうえで、毎日のように、じゃなかった、毎日、twitterに何十もツイートを吐いて、ひとのツイートも何百、何千と読んで、自分の考えをまとめたり、改めたり、修正したりという訓練を繰り返しているから、議論をすることは少しでもよい結論に達するための必須条件だと信じてるんだよな。信じているというより、理解している。

時代はそういう時代を迎えてるんだよ、とっくに。

上が言ったことが絶対視されて組織の隅々にまで有り難いお言葉として時間をかけてじっくりと浸透していく、というのはもう昭和でおしまい。

創価学会の第二代会長、戸田先生は、交通が発達して、多くの人が一か所に集まれるようになったのは広宣流布が急速に進む時代到来だ、といわれた。

であればこそ、これだけ通信、ネット、SNSが普及した今日は、さらに加速度的に、正しい仏法が全世界の隅々にまで、急速に広まっていく舞台装置は完成したと考えるのが自然だと思われ。日蓮大聖人の仏法の発祥の地、ここ日本の千葉で、いつまでもあまりにも基本的なことで揉めているのは、あまりにも建設的ではないと思われてならない。

なので、今日のところの結論としては、

・与えられた戦いで圧倒的な結果を出す
・相手に伝わるような易しい言葉でゆっくり話す

このふたつでしょうか。

間違っていたら、厳しく叱ってください。
叱られるのは慣れてるので。へそを曲げたり、退転したり、電話線を抜いたりはしません。ただ、理解、納得できなければ、ウザい、しつこい、めんどくさいと思われようが、納得できるまで、何度でも何度でも繰り返し尋ねます。

なぜか。それが僕にとっての広宣流布だし、今世の使命を果たすことに直結してるから。

今後ともお世話になりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

師匠が必要なわけ

法華経の修行で、なぜ師匠の存在が不可欠なのか。

法華経って、文上だけ読むだけじゃ、まったく意味がない。たんなる“ありがたいお話”で終わってしまう。人生の実践の哲学とするには全人格的な魂の打ち合いが、どうしても必要になる。

揮発性が高いというか。

そして、師匠なきあと、師匠と同じように法華経の実践を後世に伝えていく弟子がもっとも尊い。

池田先生ご夫妻初訪問30周年を記念 韓国で本部幹部会

全国145会場に同時中継

韓国SGI(創価学会インタナショナル)の「世界広布新時代第36回本部幹部会」が6日午後、池田大作先生ご夫妻の同国初訪問30周年を記念して、首都ソウルの池田記念講堂で晴れやかに行われた。池田先生は祝賀のメッセージを贈り、この30年の韓国SGIの歩みをたたえつつ、世界平和と立正安国への誓いも新たに、広布と人生の黄金の日記文書をつづろうと呼び掛けた。幹部会の模様は、全国145会場に同時中継された。
(2020年9月11日)

https://www.seikyoonline.com/article/29C5DD7AFA6D3AFADA96D95DE66DE4CC

御義口伝講義 英語版 序文

法華経が説き明かした
「万人成仏」の思想
「生命の尊厳」に基づく
人間主義の時代を

思えば、1962年8月、私は大学生のメンバーを対象に「御義口伝」の講義を開始した。未来への人材育成のためと、日蓮大聖人の深遠な哲学を現代に展開して、不信と憎悪が渦巻く核兵器の時代を信頼と調和の人間主義の時代へと転換させたいと深く念じたからである。

内なる変革から外の世界の変革へ

 仏教といえば、戒律や瞑想を中心とする「内なる世界」の探求のイメージが強く、「内なる世界」から「外なる世界」への働きかけという面が等閑視されてきたことも事実である。したがって、仏教を平和実現への哲学と捉える人も少なかった。
 しかし、日蓮大聖人は、有名な「立正安国論」に明らかなごとく、人間の内面の変革から始まって、外的世界の変革を実現するための根本の法理を提示されたのである。
 大聖人は、法華経を根本経典とし、人間変革、社会変革の源泉を仏や神という外的存在に求めるのではなく、人間自身の内面に通底し宇宙生命に遍在する「法」に見いだし、その「法」を開示・弘通された。
 しかし、それは当時の通念をはるかに超えていたために、法華経に説かれるとおり数々の大難に遭遇せざるを得なかった。実は、この忍難弘通の戦いが、法華経の教えが正しいことを証明し、同時に、大聖人が法華経を「身読」された、真実の「法華経の行者」であることを証明することになったのである。
 後に、身延入山を機に、大聖人は御自身の悟りの立場から、弟子の育成を図られながら、法華経を講義された。法華経の経文は、既に実感を伴って胸中にあったが、その奥義は、法華経の権威である天台大師や妙楽大師も説ききっていなかった。大聖人は、仏教の先達の教えを踏まえながら、その奥義の法華経講義を展開されたのである。
 その講義を直弟子の日興上人が筆録され、師である大聖人の御允可を賜ったのが「御義口伝」であると伝えられている。完成の日付は弘安元年(1278年)正月一日と記されている。
 法華経には巧みな譬喩や物語はあるが、哲学がないという批判がある。確かに法華経の文面だけを見れば、そのとおりかもしれない。しかし、仏教には「文・義・意」という原理がある。中国の天台大師や妙楽大師は、法華経の「文」から、「十界互具」「一念三千」「久遠実成」「開近顕遠」「開三顕一」などの精緻な「義」(法理)を引き出した。しかし、いまだ法華経の「意」を開顕することはなかった。
 日蓮大聖人は、法華経の「意」、つまり「肝心」を南無妙法蓮華経として顕され、その立場から法華経を講義されたのである。これがいわゆる観心釈であり、そこには深遠な哲学がある。日蓮大聖人が法華経に新しい生命を吹き込まれたのである。


「凡夫成仏」の原理

 「御義口伝」の構成は、「南無妙法蓮華経」から説き起こされて、法華経二十八品の各品の重要な経文を取り上げられ、天台大師や妙楽大師の解説を紹介された後に、あるいは経文の後に直接、大聖人の観心釈を示されるという形態をとっている。さらに、開結二経(無量義経・普賢経)の要文を解説され、合計231カ条に及ぶ。その上に別伝が加えられている。
 「御義口伝」の根本思想は何であろうか。さまざまな解釈が可能であるが、私は人間の尊厳、生命の尊厳をその究極において解き明かした点にあると思う。具体的には、「凡夫成仏」「凡夫即仏」の思想である。
 通途の宗教観は、人間を“聖なるもの”の下位におくものであった。しかし、人間を最高の精神的存在へと高めゆく宗教本来の精神からいえば、その人間を“神の子”“仏子”へと転換するところに宗教の存在意義がある。
 この観点を最も明確に示した「御義口伝」の一節を挙げたい。
 法華経寿量品には、釈尊の久遠成道を説いて、「我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」(法華経478ページ)とある。
 この「我」とは当然、教主釈尊のことであるが、日蓮大聖人はこの「我」を「法界の衆生」「十界己己」(御書753ページ)を指すと教示されている。つまり、十界の衆生がすべて本来、仏であると明かされているのである。
 もちろんそれだけであれば、「理」にすぎない。しかし、大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」(同ページ)と仰せられて、題目を唱えることによって、誰人であれ、「本来、仏なり」と覚知することができると、具体的な方途を示されているのである。
 実に簡潔な表現のなかに、端的に「凡夫即仏」の原理を示されている。こうした人間観が「御義口伝」の顕著な特徴の一つである。
 また、人生は多難である。その意味で、人生は戦いであり、鍛錬であるといっても過言ではない。
 トルストイが「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」(木村浩訳「アンナ・カレーニナ」)と書いたように、人生には、肉親との死別、不治の病の宣告、倒産、失業、家庭不和など、さまざまな不幸の嵐が吹き荒れる。それが人生の実相であろう。
 だからこそ、人々は法華経の「現世安穏」の哲理に救いを求めるのである。しかし、苦難の故に人間は不幸であると決め付けるならば、幸福な人間など幻のごとき存在でしかない。
 日蓮大聖人もまた、迫害の連続の人生であられた。2度の流罪、死刑、武士や暴徒による襲撃、悪口罵詈等々、命に関わる大難の連続であった。それは法華経の説く「現世安穏」とは遠くかけ離れた実相であった。そのために、人々は大聖人が法華経を経文のままに実践する「法華経の行者」であることを疑ったのである。


「人の振舞」こそ

 大聖人は、法華経を講義されるなかで、御自身の来し方を省み、人生の実相を厳しく凝視されながら、「難来るを以て安楽と意得可きなり」(御書750ページ)と、法華経とは一見、反対とも見える結論を導き出されるのである。
 いな、法華経と反対の結論というより、人々が表面的に捉えていた経文の深意を浮かび上がらせたというべきであろう。
 これこそ、苦難のないことが幸福ではなく、苦難に負けないことが幸せであるとの真実の幸福観を提示されたものといえよう。
 さらに大聖人は、「涅槃経に云く『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦』と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(同758ページ)と、一切衆生への同苦と、その苦を除く大慈悲の実践を宣言されている。
 このように、自分一人でなく、すべての人々の幸福を祈り願うところに、仏法者の生き方があることを、御自身の身をもって、指南されたのである。
 さらに、大聖人は、法華経に説かれる不軽菩薩に注目された。
 彼の菩薩の忍難弘通の方軌、信ずる者も謗ずる者も共に救いきる「法」の力、万人に内在する仏性を敬う「但行礼拝」の実践――そこには「万人成仏」の思想が如実に示されている。
 その修行のあり方を大聖人は御自身の修行に重ね合わせて、民衆救済の大慈悲の戦いを広宣流布として壮大に展開されたのである。
 大聖人は、法華経が釈尊一代聖教の肝心であり、法華経の修行の肝心は不軽品であるとされた。そして「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(同1174ページ)と仰せられた。
 この御文は、仏法の真実を、経文だけでなく、人間の行動を通して示すことに仏の目的があるという、仏法の人間主義を高らかに謳いあげている。
 一切衆生に内在する仏性を自覚させるために、あらゆる人々を礼拝した不軽菩薩の実践は、揺るぎない信念と無限の勇気から発している。
 「御義口伝」では、この不軽菩薩の「但行礼拝」について14の角度から論じられている。
 その一つに、「鏡に向って礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(同769ページ)とある。現代社会に欠けている非常に重要な道徳的原理である。
 つまり、自分が他者を尊敬するならば、他者も自分を尊敬するという、相互信頼、相互尊敬の精神が説かれているのである。
 現代社会における人間疎外の最大の原因は、利己主義にある。
 これは、私が歴史学者のトインビー博士と語り合った結論でもある。
 いかにして利己主義を超克するのか。仏法から見れば、人間を自己中心に追いやるのは、その生命に潜む「元品の無明」である。これは、自身の生命が妙法の当体であり、本来の自身が仏という尊極の存在であることを知らない「無知」のことである。
 その無知を滅するのは、人間の仏性、人間内面の尊厳を信じて疑わない、確固たる「信」にある。この「信」の確立こそ、今、人類が最も必要としているものではないだろうか。
 この日蓮大聖人の生命と平和の哲学を世界に広め、その信仰と理念を共有する人々の連帯は、現在190カ国・地域(編集部注=現在は192カ国・地域)に拡大している。
 生命の真の尊厳に目覚めた人類の連帯が、戦争やテロの暴力を排除し、貧困や環境破壊など、人類が抱える地球的な問題を解決する日が来ることを確信するとともに、またその日が一日も早いことを強く願うものである。
(聖教新聞2017年8月31日(木)付 学生部「御義口伝」講義開始55周年に寄せて 英語版への池田先生の序文メッセージ)

世界青年部歌「Eternal Journey with Sensei! ~永遠の師弟旅~」

日本語版と英語版を聴き比べると、非常に興味深い。

●日本語版

●英語版

たぶんだけど、曲と、英語版の歌詞が先にあって、日本語版の歌詞はあとからつけたという感じがする。

もし僕の想像が正しかったら、学会歌の歴史上、非常に画期的なことだと思う。僕らの知ってる学会歌は、大半が日本発で、それに各国の歌詞を付けたモノが、いままでほとんどだったから。

2020年。世界広布の本格的な幕開けを迎えているのだ。

仏法ってなんだろう

信仰との出会い

僕は母が熱心な創価学会員で、父親は大反対だったんだけど、物心つくかつかないかの頃から、創価学会の信仰に慣れ親しんでた。いまでも忘れないのは、幼稚園の年長のころ、母に自分から「勤行を教えて」と頼み、教えてもらったこと。コタツに入って教えてもらったのを覚えているので、冬のことだったか。

僕にはひとつ上の姉がいて、小さな子どもの頃はお姉ちゃん子で、姉と姉の友だちと遊ぶ、というのがけっこう日常的で。そして姉が小学生になると、姉は「少年部」の会合に出かけていく。僕は姉が行く「少年部」の会合に行きたくて、それで母に勤行を教えてもらったんじゃないかと思う。

「勤行」というのは、創価学会が依経としている法華経のいちばん大事な2つ、第2章「方便品」と第16章「如来寿量品」のごく一部を読誦するのですね。いまはうんと短くなったけど、むかしは「如来寿量品」の長行を読んでたし、寺の坊主と同じように朝は五座、夜は三座とそれぞれ3回、5回、同じのを読んでたので、えらい時間がかかった。けど僕は幼稚園の年長のときに母から勤行を教えてもらって以来、ほぼ欠かさず朝夕、勤行をやってきた。後に創価学会が日蓮正宗の宗門と別れてからSGI式と称して、いままで朝にやってた如来寿量品の長行の読誦は中止、そして朝5座、夜3座だった勤行を、それぞれ1回ずつに省略。したんだよな。いまから20年くらい前かなあ。いや、もう30年前になるか(ちょっとググってみたら、平成16年くらいからのようです)。そもそも5座3座というのは修行だけしてればいい坊主が、総本山とか堂宇が立ち並ぶでかい寺で、いくつかの建物を回ってそのつど勤行をしてたのを踏襲してたということで。メチャクチャ忙しい現代の信徒が坊主と同じように勤行することもなかろうもん、という画期的な方針転換により、世界の創価学会員は救われたわけですね。あと、SGI式というように、海外の創価学会メンバーは、日本人でも読むのが難しい経典を意味もわからずに何度も読むのは大変だろう、という意味も込められていたとか。ここだけの話、当時の秋谷会長が海外メンバーは「SGI式勤行」で!と本部幹部会で言った瞬間、僕もSGI式に切り換えました。なのでたぶん僕は日本の創価学会員のなかで、たぶん5本指に数えられるほど、SGI式を真っ先に取り入れた人間だと思われ。まあそんなことはどうでもいいのですが。笑

題目はめちゃめちゃ“効く”

話はやや脱線しましたが、創価学会員が励行している朝晩の修行は、勤行の他に「題目」というのがあり。有名な「南無妙法蓮華経」ってヤツですね。これは日蓮大聖人が法華経の文底に秘沈された究極の教えを7文字に凝縮したモノとされていて。創価学会では、勤行は助行、題目は正行として、題目がメインの修行とされる。これを知ったのはずっとあとなのですが。よく喩えられるのは、うどんとツユ、あるいはご飯とおかず。なのでまあ、朝の忙しい時間に、5座の勤行を20分とかかけてやって、題目をちょろっとあげて出かける、というのは、いずれにしても本末転倒だったのですよね。

で、知ってる人は知ってると思うし、知らない人は知らないと思うけど、この南無妙法蓮華経、という題目を、気合いを入れて日蓮大聖人の遺された「御本尊」に向かって唱えると、めちゃめちゃ効く。効くというのは非常に軽い言い方に聞こえるかもしれないけど。ふだんの生活でも、いろいろ自分がやることがなんとなく全体的にうまくいくのもそうなんだけど、やっぱりお題目の効き目を実感するのは、大きな課題に直面したときとか、大きな悩みをかかえてるとき。僕は幾度か人間関係でものすごく深く悩んだことがあって(人間関係というか女性関係)、そのときは本当に死ぬような思いをしながら半年くらいひたぶるに御本尊にお題目を上げ続けた。

あと、自分の体験でいうと、むかしデジカメの本を作ってたとき、新しいデジタル一眼レフが出ると、編集長から一冊丸ごと託されるわけですよ。「オグラ、これやって」と。で、最初にやることは、144pか128pくらいのムックの内容をざっくり決めること。「台割」っていうんですけどね。真っ白なExcelのシートに4pとか8pとか区切って、どんな内容のページを作るか、それをイチから考えるわけです。

もちろん、過去に編集部で作った類書の台割は全部参照できるわけだけど、新しく世に出たデジタル一眼レフは、そのメーカーが全力を掛けて盛り込んだ新機能が満載なわけで。それをじっくり考えながら、どういう内容のムックにしたら一冊でも多く売れるか、読者に喜んでもらえるか、それをじっと考えるわけです。その期間というのは、変な話、風呂に入ってるときも、寝てるときも、台割のことばっかり考える。そんな日々が1、2週間続くわけ。

そういうときに題目を唱えると、濃い霧でほんの数メートル先が見通せなかった状況が、少しずつでも確実に霧が晴れていき、遠くの山々がくっきりと見えてくるわけで。うっわまぢすげえ、なんだこれ、と思いながら、頭に浮かんだコンテンツをその場でメモして、なんてことが幾度となく繰り返され。学会員なら誰でも経験があることだと思いますが。

どうして題目って功徳があるの?

あるとき僕は思ったんです。なんで題目をあげると功徳があるの?と。たとえば僕はあんまり経験がないのですが、医者から見放された病気が治ったとか、経済苦を脱することができた、とか。そういう体験は世界中で枚挙に暇がありません。なんで? なんで? なんで題目をあげると功徳があるのよ。そんな疑問が僕のアタマから離れなくなったのは、45くらいのときでしょうか。いまさらながら、知恵熱というか。笑

創価学会では、お題目をあげると「宇宙のリズムに合致する」とよく教えられます。じゃあ、宇宙のリズムって何? あとよく、信仰の究極の目的は一生成仏だ、とも。むかしは歴劫修行といって、生まれては死に、死んでは生まれ変わり、というのを繰り返しながら修行を続けて、ずっと先の未来にようやく仏になれる、成仏できる、というのだったけど、日蓮大聖人の仏法は教えが高いので、題目を唱えるだけで、今世で成仏できる。人間の姿のまま成仏できると説かれます。これもわかるような気がするのですが、具体的に成仏って何?って思うわけですよ。たぶん、僕らの師匠である創価学会名誉会長の池田大作先生のようになることを成仏というのだろうけど、池田先生はあまりにも偉大すぎて、ちょっとなかなか身近に感じられないというか。もうすこし自分の実感として成仏を捉えたいと心の底から思ったわけです。これも知恵熱ですかね~。

で、まあ、題目をあげるたびに、そのことを思い、日常生活の中でも、空いた時間があると、ボーッとそのことを考えてました。本部幹部会や聖教新聞で触れる池田先生のご指導を伺いながらも、どこかに答えがあるのではないかとずっと考えてた。そしていちばんやっぱり有り難かったのは、池田先生が当時の創価学会教学部の若い俊才たちと法華経について縦横無尽に語り合った「法華経の智慧」全6巻。ここにヒントというか答えが全部載ってたように思います。自慢ではないですが、僕は法華経の智慧が本当に好きで、いままで何回も何回も読み返しています。どこにどんな話が載ってたか、だいたい覚えてる。

個別指導塾の講師として…

僕は個別指導塾の講師をずっとやってて、というのも学生時代も5年やって青春のほとんどを捧げたわけですけど、2010年頃に当時やってたフリーの編集者の仕事を自分の仕事に向かう姿勢からほとんど失う事態となり。茫然自失のなか、お題目をあげ続け、学生時代にやってた塾講師のバイトを再開してみようと思ったわけで。何もしないよりマシか、というくらいの気持ちで。

個別指導塾の講師として中学生に数学、英語と国語を教えるなかで、出合った文章が自分の目を開かせてくれた。ひとつは、「ガイアの知性」っていう、中2の国語の教科書に載ってる文章。知ってる人も多いと思うけど。元NHKディレクターで映画監督の龍村仁さんが書き下ろした文章。イルカとゾウの話が出てきて。ここに引用したブログがありました(http://www.ric.hi-ho.ne.jp/birdbanding/gaia/1128.shtml)。ぜひご一読ください。

イルカもゾウも、あんなしてるけど、じつはめちゃめちゃアタマがいい。イルカはちゃんと自分が捕らえられて人間のために芸をしてるってことをちゃんと心得てる。あるときイルカが飼育員にニックネームを付けてそれに気づいた飼育員がそのニックネームを口にするとイルカはめちゃめちゃ嬉しそうだった、って話。

ゾウのほうは、アフリカの草原のある場所に、ゾウの歯が置いてあったので、レンジャーはその歯を収集して倉庫にしまっておいた。そしたら夜な夜な巨大なゾウがやってきて、倉庫のかんぬきを開けようとする。なのでレンジャーは倉庫のかんぬきを外しておいた。そしたら翌朝、何百個も保管されているなかから、新しく収集した歯だけがなくなっていた。そしてもともと置かれていた場所に返されていたというのだ。

この話、もうめちゃめちゃ感動したのですよ。ああ、人間だけがこの地上の支配者じゃないんだって。あまりにも人間が傲慢であってはいけないって。「地球に優しく」なんて世迷い言をいってても、なにひとつ人間は地球に優しくなんかしてない、地球を虐待してばかりじゃないかって。

そしてもうひとつ、これはたしか中2の国語の難しめの問題集に出てきた文章で。

たぶん北海道だと思うんだけど、浜辺にニシンが産卵のために押し寄せる。浜辺が真っ白に染まる。そのニシンを捕ろうと漁師たちが殺到して、ものすごいことになる、という。なんかあたしの筆力だとまったく迫力が伝わらないけど、著者はたしか、これこそ大自然の摂理だ、ということを書いており。

池田先生は指導のなかで、太陽が光と熱を発しながら燃焼し、地球がものすごいスピードで太陽の周りを回る、その原動力と同じ力が、我々の命のなかにもある。それが南無妙法蓮華経だ、ということを繰り返し教えてくださっている。大宇宙と小宇宙、という言い方もよくされる。大慈大悲、という言葉もよく聞きますよね。仏の広大な慈悲を賛嘆した言い方。

「宇宙のリズムと合致する」とは

題目をあげるなかで、わかったんです。

あ、宇宙のリズムという、宇宙の摂理といい、大慈大悲といっても、同じことなんだなと。おそらくは南無妙法蓮華経が指し示す意味内容も。

題目をあげるなかで、僕は仮説を立てました。「宇宙のリズムと合致する」というのは、自分が宇宙と同じ境涯になる、ということなんだと。で、その宇宙のリズム、宇宙の摂理、南無妙法蓮華経、成仏というのは、たぶんこの3つなんだと思う。

・命を生み出したい
・命を育みたい
・生きとし生けるものを幸せにしたい

創価学会の書物とか指導集とかには、ここまでハッキリと端的に書かれたものはないように思いますが、「法華経の智慧」のなかで池田先生は、こういう意味のことをあちこちでおっしゃられている。

人間がしあわせになるって?

オグラの思索は続くわけです。じゃあ、人間が幸せになるってどういうことだろう。もちろん人の数だけ幸せのカタチがあっていいわけですけど、その根本原理を知りたいと思った。いろんな人に共通のしあわせってなんだろう。

よく、お父さんとかは、家族を養うことが僕の幸せだ、なんて言い方をしますよね。それももちろんしあわせなんだろう。でも、僕は妻も子どももいないのできっと嫉妬もあるのだろうけど、動物だって子どもを慈しみ、大事に育てるよね。そう考えると、子どもを養って立派に育てることって、人間だけが特別ってわけじゃなく、生物としての基本だよね。

題目をあげるなかで、わかった。「しあわせ」ってたぶん、「使命を果たす」ことのなかにあるんだろうな、って。すみません、前に書いた文章が消えてしまって衝撃のなかで思い出しながら書いてる部分もあるので、かなり未整理なのは承知の上なのですが、仏法では、創価学会では「使命」ということを非常に大事にしていて。僕らは法華経従地涌出品に説かれる「地涌の菩薩」だとされるんですね。地涌の菩薩というのは、釈迦の滅後、この娑婆世界で誰がこの法華経を弘めるのか、という話になったときに、釈迦のそれまでの弟子たちがそれぞれに決意を述べるんだけど、釈迦はことごとくそれを却下し。そうこうしてるとものすごい地面が震動して、地面の底からものすごい数の、ものすごい立派な菩薩たちが姿を現し。彼ら「地涌の菩薩」が釈迦滅後の法華経流布を誓うわけですね。それが僕ら創価学会員だというわけです。現代社会において全世界でこの法華経を基調とした創価の仏法を現実に弘めてるのはわれわれ創価学会員しかいない、という。

で。「しあわせ」というのは「使命を果たす」ということなのだろう。つまり、自分がこの世に生まれてきた本来の目的を果たしゆくところに、人は自身の幸せを感じるに違いない、と思ったわけです。枝葉末節はあるにせよ。

じゃあ、究極のしあわせって何よ?って考えたら、先に半分以上、答えを言ってしまったようにも思うけど、この平等大慧の仏法を世界の隅々にまで弘め、時代精神とすること。

宇宙がさ、さっき書いた3つのことを目的に回ってるとしたら、僕らは所詮「宇宙の子」なわけで、宇宙の願い通りの生き方をしたら、宇宙からご褒美をもらえるわけですよ。ものすごくわかりやすい喩えでいえば、会社員は会社の利益のために働くからお給料をもらえるわけですよね。地球に暮らす僕らもまったく一緒だと思われ。どんなに頑張ったって、大宇宙の摂理から逃れることは絶対にできないわけですよ。

たとえばめちゃめちゃ寒い真冬に薄着で外出したら、あっという間に風邪を引くでしょ。何も考えずに横断歩道を赤信号で渡ったら、車にはねられてケガをするでしょ。それと一緒で、僕らは絶対に宇宙には逆らえない。僕らにできるのは、宇宙の「意思」を知り、その宇宙の意思のとおりに生きて自分の人生に価値を生ずること。それが「価値創造」つまり創価の生き方なわけですね。

生物が地球に生まれる確率

これもググってもらえば、死ぬほどそういうページに行き当たるので、ぜひやってみてほしいんですけど、人間が、って生物が、でもいいと思うのですが、生物がこの地球に誕生したというのが、どれほど奇跡的なことであるか。

ググったらこのページがヒットした。前にもググって読んだことがある。他のページにも同じ数字が出てくるから、きっとそんなに間違いはないと思うんだけど、この地球に最初の生物が誕生する確率は、10の40,000乗分の1なんだって。10の40,000乗分の1だよ。想像できますか。無量大数とかナユタアソギとか、そんなレベルじゃない。笑

ビッグバンの考え方をアレしたフレッド・ホイル博士は、この奇跡のような確率を、僕らにもわかるように、こう表現したそうです。「廃材置き場の上を竜巻が通過した後で、ボーイング747ジェット機が出来上がっているのと同じような確率である」。ヤバくないすか。笑

太陽と地球の絶妙な距離。サイズ。地球が太陽の周りを約365日かけて一周すること。ほぼ24時間に1回、地球が自転すること。地球が太陽に対して23.4度、微妙に傾いて自転と公転をしてること。月という衛星がずっと地球のほうに同じ側を向けながら地球の周りを回っていること。木星が小惑星をものすごくたくさん従えて地球の外側を回ってること。。

たぶん、たぶんね、キリスト教とか、一神教を信じる方々は、この想像もつかないような奇跡の奇跡のそのまた奇跡みたいな確率を「神がこの宇宙を作った」って簡単に解決、納得しちゃうんですよ。ビッグバンという考え方からして、そうですよね。

でも東洋の叡智を知る僕らは、そんなに簡単に神に頼ったりはしません。仏法で宇宙は無始無終だと説かれます。はじめ人間ギャートルズの主題歌で「なんにもない なんにもない まったくなんにもない 生まれた 生まれた 星がひとつ 暗い宇宙に生まれた」「星には夜があり そして朝が訪れた」ってありますが、星がひとつ生まれたのに、どうして朝があるんだよ、と突っ込んだのは僕だけではないと思いますが、仏法ではこの宇宙を貫いているのは「法」なんですよね。人間が想像/創造した神なんかじゃない。もっといえば、神なんか要らない。

神ってモノを許してしまうと、じゃあなぜ人間は神じゃないんだ、って話になる。そして人格神と思うと、どうしても「感情」とか「恣意的な判断」というものが付いて回る。そうじゃない。宇宙にはただひたすら最初から最後まで「法」というものしかない。「リズム」といっても「摂理」といっても「大慈大悲」といっても「平等大慧」といっても「仏」といっても同じこと。それを日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と喝破された。

だんだん疲れてきたので、そろそろ終わりにしますけど、よく飲み友だちの石川恵に仏法の話をするときに話すんだけど、世の中にはいろんな宗教がある。それはたとえば、山登りに似てるかもしれない。世の中のさまざまな宗教は、みんな目指すべき理想というか目標は同じなのかも。でも、山頂に向かう道筋はそれぞれ違う。ものすごく険しい断崖が続き、限られた超一流の登山家しか山頂に辿り着けない登山道もある。以前はみんながそのルートを辿ってたけど、かつて大規模な落石があってもう登山道としては途絶えてしまっている道もあるだろう。それに対して、多くの人たちが安全に確実に山頂に到達できる大きな、幅の広い登山道もあるかもしれない。それを正しい宗教と呼ぶのは、けっして間違っていないのではないか。

いちばん最初の話に戻るけど、宇宙のリズムと合致すれば、人間は幸せな人生が送れる、とアタマでは理解できたとしよう。でも人間はいうまでもなく感情の生き物で、縁や環境によってもさまざまに揺れ動く。決意したことも貫くことはなかなか難しい。むかしの仏道修行とかもそうだよね。滝に打たれたり、荒行をしたり、死ぬほど長い経典を写経したり。天台大師は「観念観法」といって自身の内に備わる仏界を観ずる実践法を確立したが、あまりにも難しくて誰でもできるものではない。

なので日蓮大聖人は、われわれ末代の凡夫のために、南無妙法蓮華経、というシンプルかつ至高の修行法を確立してくださった。南無妙法蓮華経と繰り返し唱えることで、どんな人でも自然に宇宙のリズムと合致していける。

ただし、ここで大切なのは、お題目だけパクパク唱えていればいい、ということでは決してないということ。

宇宙は一瞬も休まず、「命を生み出したい。命を育みたい。生きとし生けるものを幸せにしたい」という自身の思いのままに活動を続けている。われわれ人間が宇宙の子として、この人生で幸せをつかみたいと思うのであれば、宇宙と同じように、他者の幸せのために全力で戦え、実践せよ、ということに尽きると思う。池田先生はつねに、口癖のように誓願の唱題、自行化他にわたる唱題行とおっしゃっている。自分の幸せだけを願ってたらあかん、てことよ。それだと単なる小乗経になっちゃう。大乗経は、自分の幸せをさておいてでも、他人の幸せのために実践をやめない菩薩の生き方を奨励しており。そういう実践によってのみ、自身の境涯、器を大きくすることができて、それによって大きな幸福境涯を築くことができると説く。

めちゃめちゃ道理だと思うんだよ。もちろん人は自分の与えられた仕事がある。僕でいえばカメラマンだし、塾講師のバイトだし。だけど人間として生まれてきたからには、個別具体的な職業、仕事とは別に、「地涌の菩薩」としての本領を発揮しないといけない。それをしないと、本当の幸福は掴めない。

簡単に言うと、人の幸せのために尽くす、全力で頑張るということ。そしてこの、僕がこの雑な文章で書いてきたような利他な生き方を自分の身近な人たちに伝えて、時代を変え、一切の差別をなくし、世界平和を実現していくこと。

すごいレベルが低い話で恐縮だけど、本当にお題目をあげないと宇宙のリズムに合致できないのかな、と無駄な努力をしたことがある。いまもたまにしてるけど。でもたいていは徒労に終わる。笑

あるとき、ボーッとしながら考えたのだ。

ひとは酔いたくなったら、お酒を飲むでしょ。

お酒を飲まずに、「酔っ払った状態を作り出したい」と思っても、あんまり意味がないですよね。そんな無駄な努力をしてるヒマがあったら、近所のスーパーやコンビニに行って、好きな酒を買ってくればいい。僕は体に悪いのでストロングゼロは避けてますけど。笑

そんなところでしょうか。今日のところは。

また思いついたら書きます。今日、書き切れてない部分も、ちゃんとわかってます。えっと、なんだっけ。笑

鮭って美味しいですよね…

あ、すべての生き物には、使命があるってこと。

ずっと前から思ってることがあって。シャケっているじゃないですか。魚の鮭。お弁当とかに焼いた切り身が入ってる…。みなさんもそうだと思うのですが、僕は焼き鮭が大好きで、イオンとかで半額でお弁当が売ってると喜んで買ってしまうのですが、醤油をかけて食べてると、必ず思うんですよね。「シャケって、なんでこんなに美味しいんだろう」って。ミカンとかもそう。ミカンって皮は剥きやすくなってるし、食べやすく小分けになってるし、甘酸っぱくて美味しいし、しかも体にいいし。いったいなんだんだろう、ってずっと前から思ってた。で、あるときに、祈ってるうちに、こんな仮説を思いついた。

すべての生き物は、なにかしら、別の生き物のためにプラスになるために、生きてるんじゃないかって。

ベタな言い方だけど、すべての生き物は、支え合って生きてる。かけがえのない存在。だからたぶん、新型コロナウイルスも、きっとなにか大きな意味がある。

うちの母ちゃんは熱心な学会員だったので、うちは貧乏人の子だくさんだったのに、どういうわけか学会関係の書物だけはたくさんあって。ほかの兄弟は見向きもしないのに、あたしだけは小さい頃からせっせと読んでた。

「希望の友えほん」っていう厚紙でできた仏法説話の絵本がうちにたくさんあって。そのなかのひとつに、僕らが肉を食べる、豚や牛や鶏は菩薩なんですよ、っていう一文があり。何十年経っても、あの衝撃は忘れられない。え? 菩薩って、なんか修行を重ねてる偉いお坊さんのことをいうんじゃないの? って子ども心に疑問を抱いた。でも母に聞いてもきっとちゃんとした答えは得られないだろうと子ども心に封印した。笑

その疑問が何十年かして、上に書いたようなことがだんだんわかってきて、ようやく氷解したわけさ。

そうか。豚や牛や鶏は、人間とか、他の生き物に自分の命を差し出すことによって、他者の命を長らえてる。

考えてみたら、魚も動物も昆虫も、たくさん子どもを産むけど、そのほとんどが大人になる途上で、ほかの生き物に食べられるというカタチで命を落とす。現実のもとで考えると、だれか他の生き物のために生まれてきた、といっても過言じゃないと思えるくらい。

植物だって、そうかもしれない。八百屋に行くと、まさに百花繚乱。イロトリドリの野菜が所狭しと並んでいるけど、考えてみたら、その植物の種をまくと、同じ土壌から、別々の植物が育つって、ものすごく不思議なことだな。色もカタチも味も栄養も違う。これももしかしたら、彼らが菩薩として、他者に自分の身を挺して元気になってほしい、健康になってほしい、命を長らえてほしい、と心の底から思ってるんじゃないか。

実がたわわになった柿の木とか見てても、ずっと思ってた。柿の木ってたぶん、自分の子孫を残そうっていう純粋な動機だけじゃなく、だれかに自分の実を美味しく食べてもらいたいって思ってるに違いない。じゃなかったら、こんなにたくさん実がなるわけないよねぇ、って。

まあ、ダーウィンの進化論とかだと、ちゃんと説明がつくのかもしれないけどね。でもいまの時点で人類が手に入れた科学が絶対なんて証拠はどこにもないからね。

蜂蜜とかも、そうだよね。一生懸命にミツバチが集めてきた花の蜜を、人間やクマが横取りして美味しくいただいてる。考えてみたら、ひどい話かもしれない。

そう考えると、人間はだれかに自分の肉体を食物として捧げることはめったにないわけで、それなのにえらそうに霊長類なんていって、すべての動物の上に君臨し、地球を我が物顔で独占し、好き勝手に破壊しまくってる。仏法の眼から見るならば、そろそろいいかげん人類も目を覚ます頃かと。人間以外のすべての生き物の幸せ、地球環境の調和のために全力を尽くすべきなんじゃないか。最大の環境破壊ともいえる戦争なんてもっての外だ。

バスケの撮影で思ったこと

僕はカメラマンとして、中高のバスケとか、小学生のミニバスとかの撮影に行くことがあるんだけど、そんなときに選手たちを見てて、思う。選手たちは試合に出たいと思って厳しい練習に耐えて、今日の日を迎えた。レギュラー選手はもちろん、控えの選手たちも、いつ監督から、行ってこい、と言われてもいいように、体調を万全にして、気持ちをベストな状態にして、そのときを待つ。

僕らも一緒だと思うんだよね。僕らが宇宙の大生命にミョウブクしてるなかで、一個の命として地球上に生まれ出たい、と心の底から願い、客観的な条件(?)も完璧に揃ったときに「宇宙生命」から「行ってこい」とGoサインが出て、僕らはこうして地球上に生を受けることができた。これは人間だけじゃなく、ありとあらゆる生命が同じなのだと思う。ちょっと比喩的な書き方になったけど。

もし我々がそういう存在なんだとしたら、この人生を価値的に生きないとしたら、あまりにももったいないよね。ほかの生命に利益をもたらすために生まれてきた我々なのに、無意味に他者を傷つけたり、地球を破壊するだけだったり、人を殺したり、騙したり、傷つけたりって、あまりにも生まれる僕らの決意と懸け離れてるし、決意を忘れすぎだろって、心の底から思う。たぶん間違いなく死んだあと、宇宙生命との対峙の場が設けられ、そこで死ぬほど反省することになるんだろうな。まあもう死んでるんだけど。それを昔の人は閻魔様の裁きみたいな言い方をしたんだろうね。

ミニバスの撮影でもうひとつ毎回しみじみ思うのは、木の床でよかった、ということ。夏も冬も思うし、冬はとくにかな、僕らは体育館の木の床に腰を落としてバスケを撮るんだけど、もしも木という材質を人類が手に入れてなかったら。金属でも地獄だし、コンクリートでも死ぬほどキツい。とくに冬は、あの木の冷えすぎないぬくもりが本当にありがたいわけで。まあふつうは、たまたまそこにあった木材という材料の特質を人間がうまく利用した、って思うと思うんだけど、でもそれって木材が地球上に存在してたからこそ、できることだよね。これはひとつの例だけど、人間って自分たちの身のまわりのことを「当たり前」って思ってることが多いよね。空気中の酸素とか、植物の光合成とか、地球の適切な温度とか。

ガイア理論=地球って生きてる?

ずっと上のほうに「ガイアの知性」との出会いを書いたけど、ガイアの知性と出会う前に「ガイア理論」については知ってた。簡単に言っちゃうと、地球というのはひとつの巨大な生命体なんじゃないかって。昔の科学者たちが地球環境を調べてて。さまざまな気体の濃度とか、地球の外気温とか。継続的に調査を進めるなかで、不思議なことがわかってきた。どう考えても数値が変だ。もしかしたら地球には自然環境をニュートラルな状態に戻そうとする自律的な働きが備わってるいるんじゃないか。地球というのはもしかしたら、それ自体が巨大な生命体なのではないかって。最初の頃、そういうガイア理論はかなり異端視されてたらしいんだけど、最近では広い意味で地球が生命体であるということを否定する学者はいないとか。これも科学が仏法に近づいたひとつだと思うんですよね。

3時間くらいぶっ続けでキーを打ち続けたので、さすがに疲れました。まだβの0.7くらいだと思いますが、このブログをtwitterとfbを通じて公開しますゆえ、みなさまからのご意見を頂戴できれば、幸甚に存じます。

仏法の存在は否定しても仕方がない。さっきも書いたけど、登山道の喩えの如く、あとはその宇宙のリズムをより完璧に説き尽くした教えはいったいどこにあるのか、ということに尽きる。そのことに早く気づいて、ひとりでも多くの方々に実践を開始していただき、いまのいまから人生を大きく切り拓いていただくことができれば、こんなに嬉しいことはない。

乱筆乱文、失礼いたします。
これからも随時、推敲を重ねます。
悪しからず。

2020/9/9、多少、書き足しました。
順番がバラバラで読みにくいですよね。
すみません。なんとかします。

敵は「利己主義」

いまさらかよ、っていわれそうだけど、仏法者として、戦うべき相手をハッキリと見つけることができたよ。

気づいてしまえば簡単なんだけど、それは
「利己主義」ってヤツだ。
要するに、自分さえよければ、ってヤツ。

物事の本質ってすべからくそうだと思うのだが、この利己主義もスケーラビリティがすごい。つまり、我々ひとりひとり、個人のレベルから、国際社会、政治、経済までの問題をひとことで貫く。

仏法で説く小我と大我っていうのもそうだな。
「心の師となるとも心を師とせざれ」っていうのもそう。
人間、自分自身の中にある利己主義に負けるな、ってことだよね。

生き物、生物である以上、自分の生命、自分の利益を最優先に考えて行動するのは、ある意味、仕方のないことだと思う。問題は、人間がそれだけのために人生の大半を費やしてしまうことの愚かさ、ムダさ、人生の損失について。あえてここでは、自分と家族の幸せのために生きる、というのも、利己主義のほうに含めておこうかと思う。いまの世の中を見ていれば、そう考えたほうが自然だと思うから。

考えてみれば、我々の身近な日常生活から、国際経済に至るまで、すべての元凶って、この利己主義だと思わん? 自分さえよければ、っていう発想こそが、ありとあらゆる紛争を巻き起こしている。人類は自分たちがまいた利己主義の繁茂によって窒息し、もはや破滅寸前まで追い込まれている。

じゃあ、この利己主義に打ち勝つためには、どうすればいいか。飛躍するように聞こえるかもしれないけど、結論からいうと、宇宙の摂理、人間の生きるべき正しい道を説き尽くした、この仏法を信受し、生涯をかけて実践を貫いてゆくしかない。

なぜ我が師匠たる池田大作先生は、全世界の民衆が渇仰してやまないこの仏法と繰り返し言われるのか。いまこの閉塞した時代に我々池田門下生が全世界でこの仏法を命がけで弘めないと、人類の行く末は真っ暗というか、もはやないよね。

僕はずっとアベ自民の国政の私物化を批判してきたけど、問題はそういうアベ自民の政治を少なくない国民が黙認というか支持してしまっていること。理由は簡単だよ。そういう国民たちも、アベ自民の腐りきった政治家たちと同じように、程度の差こそあれ、利己主義の奴隷に成り下がってしまっているから。

昔、学生の頃、ある先輩が、こう言った。
この仏法を信じて実践することでしか、真の幸福は掴めないんだよ、と。

そのときは、そんなもんなのかねぇ、って思ったけど(もちろん反論はしなかったけど)、いまならはっきりわかる。

真の幸福っていうのは、愛する人と一緒にいるとか、家族がとりあえず仲良く健康だとか、仕事が上手くいってて経済的にも安定してるとか、もちろんそういうことも大事だと思うけど、もっと深い意味においては、自分が人間として生まれてきて、自らの生命が根本的にはらむ利己主義との戦いを開始し、それを超克できるかどうか、そして深い使命を自覚し、他者のために尽くせるかどうか、尽くしきれるかどうか、自分の今世の使命を果たしきれるかどうか。それに尽きると思うんだよね。

僕は彼女もいないし、妻も子どももいないし、仕事もあったりなかったりで経済的には苦境がずっと続いてるけど、それでも、自分の生まれてきた使命をハッキリと自覚し、そのための実践を続けていこうと命の底から決意してるよ。だから、何も怖くない。いつ死んでもいいと思ってる。なぜって、死んだらまた次の生を受け、使命ある天地でこの戦いの続きをするだけだから。生も仏、死も仏と日蓮大聖人がおっしゃり、生も歓喜、死も歓喜と池田大作先生がおっしゃったとおりに。

だから僕は自分の身のまわりのすべての人たちにこの仏法を語っていくことが、息を吸ったり吐いたりすることとほぼ同義だといま考えてる。周りの同志の方々にも、はやくこのことに気づいてもらいたいと命の底から痛感し、戦いを開始してるところ。

朝の6時前から、何を書いてるのでしょう、この男は。しかもシラフですよ!奥さん!

イオンの激安ウイスキーでも飲んで寝るかな。笑

仏法ってなんだろう

ここんとこずっと、仏法ってなんだろう、ってずっと考えてるんだけど、きょう村上のイトーヨーカドーの横を歩いてるときに、浮かんできた。

仏法って、みんなつながってること

だと思う。
違うかな。
もっといいのがあったら教えてください。
m(_ _)m